2013年9月27日金曜日

神を恐れないドイツ車

  「C63AMG」「M3」「RS5」・・・なぜドイツメーカーは「乗用車」の超高出力モデルを作り続けるのでしょうか? もちろん需要があるからなんでしょうが、ドイツメーカーは特にこういうクルマへの執着が強いです。日本メーカーといってもレクサスだけが、このジャンルに参入していますが、全ラインナップを「環境対応」と掲げるトヨタとしては本音を言えばこんなクルマを作りたくはないのだろうと想像できます。

  ドイツは「環境先進国」として世界の最先端に位置しています。当然に自動車産業も世界をリードする環境基準の厳しさの中で「環境対応車」を次々と開発しているようです。しかしどうもトヨタほどの覚悟があるようには見えないです。おそらく彼ら(ドイツ人)は「環境」がそれほど好きじゃないのではないでしょうか? 「環境」なんかより「ハイパワー」の方が断然に好きなのだと思います。Dセグの一般向け3BOXにV8エンジンを押し込んで450psのモンスターカーを、プロパーでラインナップするとことは恐らくHVモデルを設定するよりも重要なことなのでしょう。

  おそらくドイツメーカーにとって「環境対応」は「仮面」に過ぎない存在で、その裏には「世界最強のハイパワー」という「本心」が隠れています。「環境対応」と「世界最強のハイパワー」という「二元論」というのはどうやらドイツ人の民族意識の根底に深く根ざしたものなのではという気がします。

  あまり安易なことを言うべきではないかもしれませんが、19世紀初頭の段階で欧州の先端を自負したドイツ哲学はイエーナ・ロマン主義の「無神論」論争から一つの極めて明快な「二元論」に辿り着きます。「無か神か」 フリードリッヒ=ハインリッヒ=ヤコービのニヒリズム批判(フィヒテ批判)を要約すると、「実存的選択」は常に「無」か「神」の選択を迫ります。すべての「認知」や「自我」は例外無く、この2つに分類されます。「無」を選ぶとは「自分自身を神とすること」であり、「神」を選ぶとは「自身の外部に自立した神が存在すること」です。


  「神」の定義は難しいですが、自らでは変えようが無い「普遍的な価値観」といったところでしょうか。例えば現代の自動車メーカーにとって「環境対応」は侵す事ができない真理(=「神」)です。異論があるかもしれませんが、トヨタやホンダは「神」を全面的に選択してクルマを作っていることになります。

  一方で「無」の選択をするとは、「神」の存在を否定して新たなる「価値観」を作ることです。それは「プロメテウスの火」のような科学的合理主義が怪物的なものに支配された感覚に近いものです。「拳銃」や「原子力」などを想像してもらえればいいと思います。既存の価値観に背くので「背徳感」を伴いますが、「人が神になる」ということには、強烈な「誘惑」の力が秘められています。

  ドイツメーカーはそのDNAの中に「無か神か」の二元論が刻まれているかのように、「環境対応」と「世界最強」の真逆のベクトルを同時に突き進んでいます。中世のキリスト教社会のように、「神」への盲目的な追従は破滅への道を連想させます。例えば自動車が「神=環境対応」に盲目的に突き進んでいった先にある「カタチ」は、限りなく「鉄道」か「自転車」に近いものになり「自動車」の尊厳は徹底的に破壊されるかもしれません。鉄道のように軌道の上しか走れなかったり、自転車のように航続距離と走行性能の限界がとても低かったら・・・。

  「無」の選択、つまり「神の否定」こそが、人々をより強く惹き付ける力を持ち、自動車ブランドの価値を維持する手段だとドイツメーカーはよく解っているのでしょう。決してナチスを例にあげようとは思いませんが・・・。よってこれからもドイツメーカーは「神」を殺し続け、自らを「神」と位置づけるような「怪物的」なクルマを次々に作っていくのだと思います。ただ世界にはいろいろな「神」がいます。「アフラ=マズダー(MAZDA)」や「涅槃の蓮(ロータス)」といった神々を殺す力がドイツ車にあるのでしょうか?

  



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